【朝起きたら転倒】

数日前からカブトムシのオス1匹が転倒を繰り返すようになった。
見ると、動きも鈍く、精力を感じない。
元気がない中で転倒ばかりすると、無駄に体力を浪費してしまうので、昨日から転倒防止用の“コケ”も大量に投入しているのだが、状況は一切好転せず──。
【とりあえず、起こす】

これは少しまずいのではないか……と、カブトムシが転倒を繰り返すことについてネットで調べると、やはり「身体の急激な衰え」だという。
若いカブトムシでも転倒はあるが、そんなに頻繁ではないし、あってもスグに起きる。
だが、“死期が迫っているカブトムシ”は、脚の爪での把握力も減衰しているので、背中に偏った“重心”を前脚で支えきれず、転倒となるという。
つまりこのオスは、「死期がもう目の前まで来ている」のだ。
【要らぬ“作為”】

もう助からないと思った自分は、隣のリビングでYouTubeで元気に動き回るキノコの映像を見ている息子(5歳11ヶ月)を呼んで、状況を説明した。
●息子「かわいそうだね」
仕方ないので、カブトムシを掴んでエサのゼリーの真上に置いて、そのまま食べられるようにした。
大学で老荘思想を学んだ自分としては、そんな不自然な“作為”は嫌だったのだが、いざ眼前で死にゆく姿を見ると、また息子が悲しんでいるのを見ると、実に下らない事をしてしまうようである。
【予定された“失敗”】

●息子「お願い、お願い、エサ食べて」
だがしかし、カブトムシはそのゼリーを、前脚で遠のけてしまった。
人間には“胃瘻”や“腸瘻”などの経管栄養法があるが、カブトムシなど“人間以外”には何もないので、そのまま死を待つだけである。
この期に及んでは、下手に動かすなど無駄なことは、むしろ逆効果であり、可哀想であり、楽に最期を迎えさせてやろうという気持ちに変わる。
【看取りに移行】

もはやできることは、息子とカブトムシが動かなくなるのを見ることだけだった。
カブトムシの看取りである。
カブトムシの動きがさらに鈍くなり、移動距離も減ったことにより、転倒もほとんど起きなくなった。
まるで急坂を下るかのように、衰弱していく。
PCで作業しつつも、大きく弱る度に息子を呼び、「もう無理かも……」と死期を示唆することの繰り返し。
【ついに、その時】

カブトムシはその日は持ちこたえて、翌朝、死んだ。
亡くなる数時間前、前脚を拳のように上げて立ち上がり、こちらを見ていた。
善く生ききった、悔いなし。
その姿は、死は自然なことであり、余計な栄養法など不要だ、もう十分だ……と教えているかのようだった。
鋼の自己肯定感

【テレ朝news】
[一言]時折、信じられないレベルの輩が出てくる。

【FNNニュース】

【テレ朝news】
[一言]中身のない、下らない人間がこれから大量生産されていくことに。ネットの弊害も、ついにここまで来たか。
あと、長らく蓋をしてきた“ネットの汚物”を、ある時点からメディアが取り上げ、もてはやした責任はないのか?


ネコちゃんとのツーショット画像が、何とも叙情的でいいな……と。

【メディカルドック】

【えのげ】
[一言]そうだったか。

【えごん】
[一言]当たり前だと思っていた機器やシステムが、向こうではなかったのか。感謝して生きないとね。


【ゲーハー黙示録】
[一言]中華料理店の力量を知るには「チャーハン」などシンプルな料理をオーダーせよ。この法則を使うなら、自ずと答えは分かる。

【ねと見!】
[一言]こういう、テレビ(地上波)ではギリやれそうにないけど、見てみたいモノが扱えるのが、YouTubeの醍醐味というところか。