ロウィンの“主役”は誰?】
クリックで拡大(撮影:中野龍三)。

今日はハロウィン。
夜の渋谷は暴れる若者で荒れるだろうか。

昨今の渋谷のハロウィン騒動で、ある女子アナの発言が話題になっている。


──アメリカのハロウィンは、あくまでも「子供たちが主役」で、“子供が仮装してお菓子をもらいに行く日”であって、このように日本のように大人たちが過度な……こう何て言うんですか……羽目外すような要素は全くないので。
こんなにね、いま日本では災害が続いて人手もお金も必要な時に、“1億円”も税金を投入して、警察も警備を強化しなければいけない状況っていうのは、非常に残念に思います──



この発言は、本来“子ども”が主役であるはずのハロウィンを、若者が暴れる口実にしているのを日頃から快く思っていない人々の共感を得て、「よく言った、その通り!」との絶賛の嵐が起きている。

者叩きで済ませて良いのか?】
クリックで拡大(撮影:中野龍三)。

もちろん、それはごもっともな話なのだが、それだけの話で済ませて溜飲を下して良いのか?という気持ちも一方では、ある。

ハロウィンに限らず年末年始・W杯などでも起きる渋谷騒動は、エネルギーやフラストレーションが溜まった若者がそれを発散するために行っていると見て間違いないが、こと都会においては“そういう場が設けられていない”という問題もあると思う。

地方だと、「けんか祭り」というのがよく見られる。
神輿をぶつけ合ったり、本当に素手でケンカというのもある。

神がとりわけケンカを所望しているワケでもないのに全国各地で「けんか祭り」が発生するのは、それによって地域コミュニティが恒常的かつ健全に回せるからだと思う。
狭い地域の枠内において、生きのいい若者が力を持て余していると、力を変な方向に使い、地域コミュニティが不穏になる可能性がある。
その解決策として、定められた祭りの日だけは大暴れして良いと取り決め、思いっきり暴れさせる。
それで地域コミュニティが保たれるなら、実に安い話である。

だが、都会は人口が流動的で地縁・血縁も薄いため地域コミュニティは築きにくい(※無いわけではないが、小さくて分断的だ)。
枠なんてあって無いようなモノなので、若者をその中に留め置いてコミュニティを運営する必要性すらない。
コミュニティの外にもすぐに別のコミュニティが無数にあるし、生活基盤や経済基盤がだだっ広く展開されているので、仮にコミュニティが崩壊しても、何も困らずに生きていける。(※形骸化したコミュニティも多いと思う)

なので、多くの都会人が思う“地方よりしがらみが無い”という最大のメリットは、こういう構造から来ていると思う。

しかし一方で、若者のエネルギーやフラストレーションは都会でも変わらず溜まるので、どこかで発散したくなる。
地方のシッカリしたコミュニティだと、その“はけ口”となる祭りやイベントを用意して、それを吸収する事ができるが、都会ではコミュニティが脆弱・希薄なので、“溜まっている”若者は、ただただ枠を越えてオーバーフローするしかない。

そして行き場を失った若者の氾濫は、文字通りの大きな窪地である「渋谷」に溜まる事となったと考えられる。

したがって、なるようになった結果であり、「因果」なのである。



●「ニュース」、後で追加できたらいいな……。