【車のキャッチボール】


子供の頃、父と遊んだ記憶というと、庭で蚊に刺されながらのキャッチボールだった。
軟球を使っていたので、小学生の自分は少し怖かったが、刺激的でもあった。
自分が父親になった今、赤ちゃん息子(1歳11ヶ月)とキャッチボールをするのは、まだずいぶん先の事だろうと思っていたのだが、何と “赤ちゃん息子の提案” で始まったのが、「車のキャッチボール」である!
廊下を使って、“オモチャの車”を相手に向かって滑らせ合う遊びで、ピューッと車が行き来するさまは、まさに“飛ばないキャッチボール”だ。
【子供が遊びの天才たる所以】

こちらは、お風呂で浮かべてゼンマイを回すと両輪スクリューで水上を進むオモチャなのだが、肝心の水上ではノロノロしていて、10cmも進まないうちにセッカチな赤ちゃん息子に捕まってしまう体たらく。
ところが、これを陸上で走らせてみるとやたら速く、徐々に加速していくカッコ良さに、赤ちゃん息子も大喜びときた。
いずれも100均のオモチャなのだが、最近の100均モノは、けっこう出来が良くて驚く。
それにしても、さすが「子供は遊びの天才」だと思う。
だがそれは、単に天才という言葉で済ますのは、本質を霧で包むようなものに思える。
赤ちゃん息子をずっと見ていて気づいたのは、「子供は目の前のアイテムをいじくり回して、時間と試行錯誤の果てに遊びを見つける」という事だ。
吊ってあるズボンの下に座って、両すそを両手で掴んで時計回り・反時計回りに回転させたり、カーテンを身体に巻いて自らグルグル回転したりするのは、親が教えなくても勝手に見つけてやる事である。
大人の場合は、サッカーやボウリング、テレビゲームなど、「誰かに定められた形式のもの」を遊びと認識してから実行する、逆に言えば、それしか出来ない。
対して子供は、先述の通り、形式に囚われず、目の前にある事物をいじくり回す事で、自然と遊びを見つけてしまう。
これが「子供が遊びの天才たる所以」でもあるし、もし天才が言い過ぎだとすれば、迂遠なる大人とのスタンスの違いという話なのだが、いずれにせよ、子供のやる事の方が遊びの“原点”ともいえる。
それなのに、子供のやる遊びのほとんどが大人と共有されない理由は、その遊びが内容的に単純すぎて奥行きがなかったり、ルールが定まっていない事で齟齬や軋轢を生むリスクがあったりするためだ。
先日は、古い知己の犬飼博士さんが提唱する「YCAM未来の運動会 2019」のニュースを取り上げたが、それは学校が決めた競技や遊技をするのではなく、自らの手で競技を創作していくという事だった。
子供は出来合いのモノでなく、目の前の事物をいじる事で「遊びの原点」に立つ事に慣れているため、上記の「未来の運動会」をやるなら、大人よりも数段上のアドバンテージを保有する。
だから、もし新しいスポーツを生み出したいなら、スポーツの原型が遊びである事を考慮して、子供のやる事に注目し、生み出された遊びを“スポーツの卵”として取り込み、そこにスポーツに必要不可欠な「奥行き」や「ルール」、「難易度や勝敗などのバランス」を付加していくのが近道となるかも知れない。
もし「未来の運動会」がそういう事情を認知した上で、子供と組んでスポーツ創出に取り組んでいるのなら、やはり空恐ろしいまでに凄い事だと思う。

【バレッド】
[一言]先日紹介した記事の「続編」。今日の日記を読めば、もう説明は要らないだろう。
▼ありきたりの競技とはおさらば! 運動会を自分たちで“つくる”「YCAMスポーツハッカソン2019」(※先日紹介した記事)


【NHKニュース】
[一言]警察が児童相談所よりも「裁量権」を持つようにすれば良い。警察が子供を、親や連れのチンピラから完全に引き離し続けていれば、助かっていたかも知れない。

【TBSニュース】

【テレ朝news】
[一言]いいアイデアだ。
【HTBニュース】

【テレビ西日本】

【京都新聞】
[一言]凄く攻めてるね!

【オタクニュース】

【えごん】


【NewsACT】


【暇つぶしニュース】

【PS4速報!】

【ゲーハー黙示録】

【ぶる速】



【めぐすり】