過去のeスポーツ記事

ゲームを五輪種目にするために越えねばならない2つの問題

2012年8月25日の記事です。

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自分が運営に関わったeスポーツ対戦会より。


 「ゲームをオリンピック種目に」というのは北京五輪の頃から出ていて、ゲーム競技者なら一度は考えるかもしれないこの話。
 実際のところ、そんなことが可能なのだろうか?

 “競技人口的”には、アメリカ、韓国、中国、ドイツ、ノルウェー…そして日本など、世界の多くの国にプロゲーマーがいるわけなので、問題ないと思う。

 実際、世界最大のeスポーツ大会“WCG”では最大74ヶ国が参加しているので、今後の流れ次第では、オリンピックの競技採用基準「4大陸75ヶ国以上」(※男子の場合)を満たすことが出来る。

 ただそれでも、本当にオリンピック種目化を実現しようとするならば、そこに「2つの問題」が立ちはだかるだろうか。


【そもそもゲームはポーツなのか?という問題】

 まず挙げられるのが“そもそも論”的なこの問題。

 特に“ゲームはホビーにすぎない”と軽視する声も多く、わが国では特にそれが甚だしいが、実は世界でもこういう声はそれなりに多く聞かれる。
 ゲームのイメージがオリンピックに直結するのは、一般的には難しい。

 ただそれでも自分は、「ゲームはスポーツだ」と結論づけている。

 ゲームが「競技」と「肉体的鍛錬」(手先や動体視力など)の2要素を有している以上、スポーツでないと否定することは出来ない…つまり、“スポーツである”ためだ。

 もっとも、スポーツの定義自体があまり定まっていない背景があるゆえ、こういった“歴史的かつ消去法的アプローチ”となっている。

 いずれにせよ、まずは「ゲームはスポーツである」ということを理解してもらわないとならないわけであり、これは決して低くない壁なのである。


【ゲームルールの理の問題】

 もう一つの問題は、「ルールを理解すべきゲームの数が多い」ということだろう。

 他のオリンピック種目は基本的に“1つのルール”だ。
 「テニス」も「アーチェリー」も「柔道」も、それ1つのルールで作られたゲームといえる。

 今回も日本が大活躍した「体操」は、確かにいくつかの部門に分かれ、ルールも違うが、見た目で分かり易いうえに数も限られる。
 観客は限られたルールのみ覚えれば、その競技を永続的に楽しめる。

 しかしeスポーツのゲームタイトルは、無数にあるうえ、今行われている「格闘ゲーム」「FPS」「RTS」は、それぞれ全く違うルールで構成され、見た目も分かり易いかといえば…さすがにそうですとは言えない。

 さらに、年を追うごとに古いゲームタイトルは新しいゲームタイトルに更新されることになるので、ルールを理解すべきゲームの数は無限で増えていく。

 もし、マリオやブロック崩しのように“見た目で分かるゲームの数部門”でずっといくなら、ハードルは大幅に下がるのだが。


【条件をたすだけで済まない現実】

 また何より、先述の“4大陸75ヶ国以上”を満たした競技がすべて認められるわけでないという現実がある。

 それどころか、人口に膾炙して一度は採用された「野球」や「ソフトボール」が現在外され、さらにメジャーな「ラグビー」に至っては90年近くも開催されず、ようやく次のリオ五輪で“7人ずつという妙な制限付き”で、ようやく再採用されたのが現状だ。

 そんな中で、恐らくゲームについてよく知らない国際オリンピック委員に、どうやって正しく理解して貰うのか…。

 もし“本気”でやるならば、その辺をもっと詰めないといけないのでは、と自分は考えている。


≪関連記事≫
プロ・ゲーマーとは?(Wikipedia)

公営カジノがゲーム界を救う

2010年10月22日の記事です。


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羽田空港に国際線ターミナル業、新たな第一歩

 昨日、羽田空港に新たな国際線ターミナルが開業した。
 まさに海外に開けた新たな空の玄関口であり、記念すべき素晴らしい日である。

 そして自分は、この羽田空港の近辺に「公営カジノ」が出来ることを期待している。


不安定な輸出に頼らぬ「良質の需」

 現在、日本は未曾有の経済的行き詰まりを見せている。

 実質GDPはここ10年、毎年約1%ずつ落ち込んで、それに連動するように企業の設備投資も減退し、モノ作りは限界を迎えている。

 もはや数十年前のように、何もない状態から白物家電を新たに買い集めるというようなドラスティックな変化の潮流は望めず、「内需」による経済基盤の拡大は全く期待できない。

 このような“成熟飽和経済”に到達してしまった上に、本来旺盛に消費すべき若い年齢層が、あまりの収入の低さに車も買えず、旅行にも行けず、1品290円以下の居酒屋か家飲み・ネット飲みで済ますという現状は、まるで内需拡大を精神論のように叫び続ける国会議員や産業人の無策を冷たく笑うかのようである。

 だからといって「外需」に頼ろうというのも、厳しい話だ。

 すでに海外の戦略的“円買い”によって輸出の気運を封じられ、異常なまでに高い円での輸出を強いられ、貿易収支を悪化させているのが現状だからだ。

 したがって現在の日本は、内需拡大も外需依存も叫べぬ、極めて閉塞的状況に陥っているのである。

 だがこのような状況において、「公営カジノ」はややもすれば、この閉塞状況を打ち破る“尖兵”となるかもしれないのだ。

 それは“観光資源としての”カジノであり、経済効果は一説には“1兆円”ともいわれている。

 とりわけ空港の周りにカジノを作りでもすれば、多くの外国人観光客が旅のシメに遊んで帰れるし、もとより“それ目的”で来てもらえるかも知れない。

 外国人の客単価は確実に上がるだろうし、観光客数自体も増えるかも知れないのだ。

 これはまさに、輸出に頼らない「良質の外需」といえる。

 10年ほど前から石原都知事が提唱するも、法の壁を越えられず2003年に断念したこの「カジノ構想」は、どうやら現在、一部の国会議員によってふたたび推進されているようで、候補地は沖縄と東京・お台場である。

 羽田空港が国際線ターミナルを開業させた今となっては、さらにこの運動を加速させて、羽田近辺に出来たら…と個人的には思っている。


公営カジノが、ゲーム界を活性化させる

 経済的に行き詰まった現在の日本を救うかもしれないこのカジノだが、この恩恵は“ゲーム業界”にとっても、大きなものとなるだろう。

 カジノで遊ばれるゲームは当然ながら、ゲームメーカーが作るわけだから、業界に新たな需要が生まれることになる。

 そしてカジノは、恐らく半永久的に続くだろうから、そのままそこに“新たなゲーム市場”が生まれるということでもあるのだ。

 さらに、外国人観光客を多く取り込めば取り込むほど、国内の他のゲーム市場を損なうリスクが下がるので、新たな市場開拓によるそれまでの市場の圧迫という“パイの奪い合い”に悩むゲーム業界にとっては、まさに理想的市場といえるのだ。

 ゲーム業界の低迷が叫ばれる昨今、公営カジノは日本経済同様、ゲーム業界を活性化させる重要な切り札となるのではなかろうか。


公営カジノが、ゲーーの地位を向上させる

 なお、ここからは自分の提案および私見だが、やり様によっては、公営カジノがゲーマーの地位を向上させることにもつなげられるのではないか、と考えている。

 現在、ゲームのイメージはWiiやDSによる非ゲーム層の取り込みなどによって、徐々に上向いてきているが、ことゲーマーについては、「廃人オンラインゲーマー」(ネトゲ廃人)がテレビで特集されるなど、80年代同様、依然として悪いままだ。

 自分はこれまで一貫してeスポーツ化、ゲーマーのプロ化が、結果としてゲーマー全体のイメージ向上につながると述べてきた。

 それはゲーマーがゲーム競技によって生活の糧を稼ぐことで、ゲームをただの“ホビー”だけでなく“プロスポーツ”という意味合いも持たせることが可能となる。

 となると当然ながら、これに従事するゲーマーは一定の社会的地位を手にすることになり、ひいてはゲーマー全体のイメージアップにつながる…という話だった。

 ところが現在の日本では、これらeスポーツ化、ゲーマーのプロ化がなかなか進まず、国内かつゲーム競技のみで生活するということには至っていない。

 そこで自分が提案したいのは、もし法律が改正され、日本に公営カジノが出来るのであれば、その中に「ゲーマーの闘技場」を作れないか…ということである。

 とはいえ、これは決して“ゲーマー同士で賭けゲームをする”というワケでなく、ゲーマーが競技し、それに観客が金銭を賭けるということだ。

 つまり、ゲーマーは競馬の騎手や競輪選手のごときポジションであり、「eスポーツとカジノとの連動」ということである。

 カジノの中にゲーマーの闘技場があるというのは、他ではないことなのかもしれないが、世界中のカジノの中で、日本らしいカジノを作るというのであれば、これは一定の意義を持つことだろう。

 ただもちろん、これには問題もある。

 eスポーツのための“見せるゲーム”作りが必要だ…と、あるeスポーツ運営者が強調するように、競技向きのゲームが開発されている(または、すでにある)状態でなければならない。

 特に外国人観光客が多いであろうカジノ内においては、分かりづらいゲームだと、即座に競技が成立しなくなる。

 またそれ以前に、観客の賭け事のためにゲームプレイを披露するのか…という抵抗もあるかも知れない。

 そして同様の理由で、地位向上どころか、逆にイメージダウンになるのではないか、という危惧もあるだろう。

 ただ、競馬の騎手や競輪選手を見て分かる通り、彼らにはそんな負のイメージはないし、ゲーマーをキチンと職業化することこそ、地位向上の第一歩であることを考えると、やはりこれに期待せずにはいられないのだ。

 いずれにせよ、公営カジノのゲームによって、日本経済が持ち直しでもすれば、それと共にゲーム界全体の活性化も望めるのでは、と考えている。

高額賞金をかけたゲーム大会も開催可能! 弁護士の見解

2007年5月27日の記事です。

高額賞金をかけたゲーム大会は、
日本でも出来る

 ずっと疑問に思っていて、また当HPの性質上、TV製作会社や出版社、イベント会社から問い合わせがあった疑問。それが「ゲーム大会に高額賞金をかけても問題ないのか?」という疑問だった。

 「賭博に関する法」を中心に、自分でも色々調べてみたが、なかなか判明せず、また一方で各所の様々な意見を総合してみたが、「最初からダメだ」というものや、「額が小さければいい」というものや、「『闘劇』(格ゲー大会)の賞金は、法的に出せるギリギリの線」など、真偽も分からない情報がいっぱい出て、それらは余計自分を混乱させるものでしかなかった。

 実際ある大手ゲームメーカーの役員も「賞金をかけたゲーム大会をプロデュースしたいんだけど、法律がね・・・」と話していたり、推測や所感でしかすぎないにせよ、自分もまた、やっぱり高額賞金をかけたゲーム大会は日本では許されていないのでは・・・、と思っていた。

 さてそんな折、当HPの読者の方の一人に、弁護士の先生とお知り合いの方がいて、先日(といっても、だいぶん前になってしまったが)その法的見解を提供していただいた。

 それが「高額賞金をかけたゲーム大会も開催可能」という結論だ。

 正確には、ゴルフトーナメントや将棋の竜王戦など、他のスポーツや競技と同様の方式で行うのであれば、「ゲーム大会に賞金をかける事自体、何ら問題にされるべきでない」ということだ。
 むしろ、ゴルフや将棋で可能で、なぜゲームがいけないのか? ということで、確かに考えてみればそうだな、と首肯できる。

 だから結論からいえば、優勝賞金が100万でも、アメリカのように数千万でも、ゲーム大会に賞金がかけられるのである。


賞金をかけたゲーム大会、どうやって行う?

 さて、ではどうやって賞金をかけて大会をするか、概観してみよう。

 もちろんその方法は、ゴルフ大会など、他のスポーツと同じ方法で行われる。
 どの大会でも同じことだが、まず「大会運営者」がいて、「選手」は「大会運営者」に対し、彼らの設置した会場や競技場の使用料を支払ってプレーする。

 そこで「選手」が優勝したり、上位入賞を果たしたりすると、「賞金」が発生し、「選手」に支払われる。

 早い話が、それだけである。

 ただし一つ注意しなければならないのは、“その「賞金」を、「大会運営者」が出してはならない”ということだ。
 もし「大会運営者」が賞金を支払うとすると、「大会運営者」が会場を“開帳”し、「選手」(博徒)からカネを巻き上げ、勝った者にそれを還元する、という 「賭博」 が成立してしまうからである。もちろんこれは違法である。

 なので各種大会は、「大会運営者」と「賞金を支払う者」 を別にしていて、「賞金を支払う者」がいわゆる“スポンサー”ということになる。これなら「賭博」が成立しないので合法というわけなのだ。「サントリーオープン ゴルフトーナメント」や、「キリンカップ」(サッカー)など、様々な“冠大会”があるが、これらは全てこういった事情が絡んでいるのである。

 ゲームもまた、同じ方法で行われる限り、問題ないのである。


では、ゲーセンでは開催可能か?

 しかし、ゲームの賞金つき大会を開く場合においてなのだが、さらにもう一つ、注意すべきことがある。

 それは「ゲームセンター内で開くことは、許されない」ということだ。
 もちろん、毎週全国のゲーセンで行われている“従来どおりの大会”については問題ない。
 だが、賞金をかける大会ともなると、それは不可能だ。

 というのは、ゲームセンターは「風俗営業法」という、賭博法とは別の法律で縛られていて、風営法の方に引っ掛かるためである。だからやるなら、『闘劇』のように、ゲームセンター以外のスペースを用意して、そこでやるしかない。

 しかし“抜け道くさい”話で申し訳ないのだが、ゲーセンでも賞金をかけた大会を行う方法が一つだけある。

 それは、「床面積に対して筐体数がある一定以下の数しかないゲームセンターで行う」というものである。
 これらは法律上「ゲームセンターとは認識されていない」ので、風営法適用外となるのである。
 たまに見かける「24時間営業のゲーセン」などは、まさにこういった類の店である。恐らくは表面上は、カラオケ屋かビリヤード場などということになっているはずだ。

 だからどうしてもゲーセンでやりたければ、そういった類の店を探すことをお勧めするが、どのみち会場を借りれば済む話なので、無理にゲーセンにこだわる必要もないだろう。

 また法律とは別に、ゲーセンで賞金つき大会が開かれるのは、教育上あまり感心しない部分もある。

 子どもがゲームでカネを稼ぐことしか考えられなくなり、成長期に受けるべき教育を始め、その他の嗜好や興味を見失ってしまうのなら、やはりそれは損失といわざるを得ない。
 子どもが学校をサボって大会に行き(あるいは大会で賞金を獲得するための練習に行き)、ゲームセンターがそういった子どもの溜まり場となったとしたら、それはそれでいかがなものだろう。

 だから賞金付き大会が日本で行えることが判明した以上、それに出られるのは○○歳以上、といったガイドラインを早々に策定すべきだと考えている。


もっとゲームは胸を張れ

 最後に、一連のこの問題について現状を分析してくださった弁護士の先生によると、

 「賞金付き大会を開催しようとして実際に咎められたという例は無いのでは? 裏付けが無いから誰も一歩目を踏み出さないだけでは?」

 という見解だった。
 そして、

 「ゴルフやモータースポーツで出来るのにゲームでは違法ということは絶対に無い」

 という心強い一言も頂いた。

 そして自分もまた思う。ゲームが社会悪のように捉えられていた時期が長かったため、ゲーマーやゲームメーカーサイドもどこか“及び腰”になっているところがあるのではないか、と。

 我々はそろそろ「新たな一歩」を踏み出してもよいのではないか。



 ゲームと賞金の関係を公正に判断して下さった弁護士の先生、
 なお、この情報を提供していただいた「村角」様、
 本当にありがとうございました。

「ゲームの1位」 は、社会で認められるか?

2007年8月25日の記事です。

スポーツスタジアム・無事終了の打ち上げ
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 さて、今回はかなり趣向を変えて、とある「実験」をしてみた(いつも理論じゃつまらないかと)。
 今回、実験をやってみようと思い立ったのは、 Eスポーツスタジアム の運営者を中心に、先日の大会(2007.8)の ”打ち上げ” をやろう、という話が来たことによる。
 打ち上げ会場は、新宿の ”酒を持ち込める” 中華料理屋(料理が旨く、居酒屋としても極めてリーズナブル!)とのことで、下調べにそこのHPを覗いた時のことだった。

  上海小吃 (新宿・歌舞伎町)

 ここの「来店サービス」について眺めていた時だった。あっと思ったものがあった。
 それは、 「各ジャンルで『1位』になった方にはワインをサービス」 というものだった。
 内容を真剣に見てみると・・・


 何とスポーツの1位も認めてくれるというではないか! ・・・これはさぞかし、ゲーム競技の1位もOKなんだろう・・・というより、自分にとって基本的に1位とは、 ”ゲーム競技の1位” を指し、最初から、それ以外の何者でもないのであるが。

 ともあれこうして自分は、「実験」をやってみようと思い立ったわけである。

 さて自分にとってのゲーム競技は、格ゲーやFPS対戦ではなく、「ハイスコア」なので、そこでの「全国一位記録」を使うことになり、具体的には、アーケードゲーム誌の「アルカディア」に記載された自分の「全国一位記録」を用いることにする。

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 過去の全国一位記事をいろいろ掘り返してみたが、やはりこの記事(STG『ピンクスゥイーツ』の初回集計)が、ちょうどいい感じで「1位」と明記されているので、ゲーム誌をあまり見ない人でも、すぐに理解してもらえるだろう。
 幸いというべきか、自分の身分証の実名とスコアネームが同じのため、更に分かりやすくていいい。
 (※スコアネームと実名が同じなのは、10年以上前からで、別にこの日のために ”狙った” というわけではない)

 そして今月8月21日、満を持して、打ち上げと実験を兼ね、会場の「上海小吃」へ。
 「上海小吃」は、まだEスタの仲間があまり集まっていなかったが、久々に会う顔がいっぱいあり、しばし懐かしんだ。
 ただそれも束の間、この ”1位ワインサービス” は、来店時に申し出なければならない。

 積もる話もそこそこに、自分は早速ゲーム雑誌片手に、今回の「週刊」の題名どおり、「ゲームの1位」が社会で認められるか、試すことになった。

 ただこの実験を試す前に、「ゲーマーの社会的地位」について、軽く振り返っておきたい。


ームにハマっていることを
ひた隠しにするゲーマー

 WiiやDSの好調により、これまで縮小傾向にあったゲーム産業は、一気に勢いを盛り返し(ブーム火付け役の任天堂は、1兆円企業に躍り出た)。
 こういった最近のニュースは非常に喜ばしいし、今後もいろんな層にゲームが受け入れられていけば、と思う。

 しかしそれはあくまで「ゲームそのもの」(あるいは産業として)が認められたわけであり、「ゲーマー」が認められたことでは、一切無い。それゆえ当HPは、「ゲーマー」の地位向上を開設時から謳っていて、その現状を少しでも変えられないか、模索し続けているわけである。そして無論、今回の「Eスタ」運営協力も、その一環である(何のために ”プロゲーマーWEB” と銘打ってあるか、再確認していただければ幸いです!) 。

 またさらに厳密にいえば、こうやってやっと認められた「ゲーム」の方でさえ、それが ”他の多くの趣味とともに遊ばれる” ことを期待されていて、 ”ゲームにどっぷりハマる” ことについては、まだまだ否定的である。
 ここであくまで求められるのは、「Wiiのある新しい生活」であり、「Wiiばかりの新しい生活」ではない。

 最近友達から借りた、ゲーセンでシューティングゲームにハマっていく高校生の成長を描いた本『連射王』(川上稔)にもあったが、やはり主人公は自らがゲーセンでハマりまくっている事を、親はもちろん、友人にさえ自らがゲーセンに通っていることを ”ひた隠し” にしている。
 例えば、日夜練習に励んで甲子園を目指す「野球少年」や、高価な機材をそろえて音楽活動に精を出す「バンドマン」・・・彼らは社会から好意的に見られても、生活が厳しい以外にこれといったネガティブなイメージはない。 いやまず何より、彼らを ”オタク” と呼ぶ習慣すらないだろう。

 ゲーマーは違う。ゲーマーはれっきとしたオタクであり、暗い、キモイ、狂っている、という ”3Kイメージ” で見られがちであるし、ややもすれば、犯罪を起こした少年の趣味として槍玉に挙げられることすら、これまで何度もあった。
 残念ながら現時点では、技を見せて観客を魅了しても、片やヤンキースの松井秀喜は ”スポーツのプロフェッショナル” で、片やゲーム大会優勝者は、 ”ただのオタク” である。

 そういう意味においては、一般ゲーマーであろうと、大会優勝者や全国一位スコア獲得者であろうと、残念ながら「極めて ”平等” に ”差別” される」


して遂に申し出る。 結果は・・・!

 さて、そんなバックグラウンドが重くひかえている中で、果たして「ゲームの1位」は認められるのだろうか?

 Eスタメンバーが続々と店内に集まる中、自分は思いきって、店長に申し出ることにした。
 事情を話したEスタのメンバーからは、「頑張れ!」と檄が飛ぶ。

 店長は厨房で忙しくしていたが、今しかないと思って話しかける。 ”ナンバー1のサービス” についてですが、ゲームのハイスコア全国集計で1位になったんで、いやその、ワインをサービスしていただけないかな、と・・・。

 ゲームをれっきとしたスポーツととらえる当HPの性質上、こういったことは決して恥ずかしがってはならず、むしろ当然のことのように申し出なければならないわけだが、それでもドキドキしてしまう。
 こんなこと言って変な奴とか思われないか(既に変ですけど)、最悪、「お前は何を言ってるんだ? そのまま帰れ」とか言われるのではないか、と内心はかなり心配していたのである。

 店長は自分が差し出した「アルカディア」(アーケードゲーム誌)のハイスコア全国一位ページをマジマジと見て、一瞬固まったように見えた。

 そりゃそうだろうな、ゲームの「ゲ」の字も知らないであろうご年配の店長さんに、いきなりゲームもスポーツで、その1位を認定しろ、と言っているわけなんだから。無理難題を押し付けたも同然だ・・・。

 反応を見て自分がやっぱダメか、とあきらめかけた時のことだった。店長は自分の名前を指差して「これですね、分かりました。じゃ、このページをコピーして再度お持ち下さい」と言って、10円玉を手渡してくれた!
 やった、と思った瞬間だった。コピーを要求するとは、「1位証明文書」としてそれを認定するということだ。自分が慌ててコピーし、店長に手渡したのは言うまでもない。

 みんなが席につくころ、件のワインも運ばれてきて、今度は事情を知った全員が、大ウケしただけでなく、「おめでとう!」と祝福してくれたことが、とても嬉しかった。

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乾杯!!
(※ ただしこういった成功例は、あくまで一例です)

 いずれ、この「ハイスコア全国一位によるワイン無料化大成功」を、”これはあくまで一例です” と 但し書きすることのがなくなる時代が来る日まで、これからも頑張っていきたい。

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おまけ : これが 「豚の脳ミソ」
(味があまりに ”タラの白子” に似ていて、驚いた!)

ゲームは ”スポーツ” なのか?

2006年8月27日の記事です。

【ゲームは “スポーツ” なのか?】

 現在これを、バレーボール「ワールドグランプリ・日韓戦」(女子)のTV中継を観ながら書いている。

 コートでは、柳本ジャパンのメンバーが汗を流して、逆転を信じ、その引き締まった肉体から全力でアタックを叩き込む。

 さて、これこそが我々日本人の “典型的なスポーツ観” と一致することではないだろうか。「スポーツ」とは体を鍛えて、全身を使い、汗水流してするものだと。

 この感覚では、「ゲーム」は、どの角度から見てもスポーツではないことになるだろう。ボタンを押したりレバー、もしくはマウスを回したり、確かに体の一部は使っているが、だからスポーツか、といわれれば、うーんと首を傾げたくなる。

 だが、海外に視野を転ずれば、ゲームは今や「e-スポーツ」とよばれ、れっきとしたスポーツとして認識されている。

 1998年にアメリカで開かれた「QUAKE」とよばれるゲーム大会に端を発するこの「e-スポーツ」は、現在では世界各地で大会が開かれ、プロリーグやそこに所属するプロゲーマーが存在するさまは、プロ野球やプロサッカーと何ら変わりない。

 また韓国の場合は、夜のゴールデンタイムに野球のナイターよろしくゲーム大会が放映されていて、この国のプロゲーマーは他のスポーツ選手同様「社会的地位」を得ている(我が国のように「キモイ」、「オタク」といった負のイメージはない。むしろ「子どもがなりたい職業1位」)。

 といった感じで、海外という範疇においては、「ゲーム」は今度は、どの角度から見てもスポーツであるのだ。

 この日本と海外の違いについては、後でゆっくり述べるとして、そもそも「スポーツ」とは何なのだろうか。


【スポーツの定義とは?】

 スポーツの定義に関しては、玉木正之氏の『スポーツとは何か』(講談社現代新書)が詳しい。

 玉木氏はまず「スポーツの基本は、遊びである」と説明。さらにそれを細かく分析している。

 「スポーツの定義は、国語辞典ならば、 <遊戯・競争・肉体的鍛錬の要素をふくむ身体運動の総称> といった説明でいいのだろう。が、 ”スポーツとは何か?” という命題に対する回答としては、「スポーツ学者の数だけある」といわれるくらい数多く存在する」。

 続けて回答を提示している。

 「①<余暇における余剰エネルギーの消費(浪費)>(多くのスポーツ学者の説)

 ②<遊戯、闘争、および激しい肉体活動の複合されたもの>(ベルナール・ジレ)

 ③<プレイ(遊び)の性格を持ち、自己または他者との競争、あるいは自然の障害との対決をふくむ運動>(ICSPE「国際スポーツ・体育評議会」)」


 以上の説明をみると、いかに「スポーツ」が広い範囲をカバーしているかが分かる。

 もちろんこれは一人の学者の極論というわけではなく、あくまでスポーツ学の常識的立場に立った説明である。

 例えば、「スポーツ学」ではもはやお馴染みであろうフランスの思想家・ロジェ=カイヨワは、遊びを、

 「アゴン(速さ・強さ・技術等を競う競争)」、

 「アレア(運に任せる遊び)」、

 「ミミクリ(変身する擬態の遊び)」、

 「イリンクス(身体と心を混乱に陥れる眩暈めまい)」、


 の4つに分類していて、これまた遊びがスポーツと同根であることを考えると、スポーツが広い意味でとらえられているのが分かり、かつ、遊びがゲームと同義であることから「ゲーム=スポーツ」と認識できるのである。


【「スポーツ=体を使うこと」という幻想】

 さて、スポーツの定義をみても分かるように、スポーツは体を使うことだけが全てではない。それこそ昔は理論を無視した「根性主義」が横行し(甲子園での高校生の “連投” はその悪しき名残り。アメリカでは連投は、人道的・人間科学的見地から禁止)、例えば「Jリーグ」以前のサッカー日本代表などは、「足が折れるまで」を合言葉にしてプレイしていたが、今となってはもはや、時代遅れの認識錯誤となっている。

 それを最近我々に印象付けたのが、新しく就任したサッカー日本代表のオシム監督だろう。

 オシム監督は、「真のサッカー選手は、プレイした後に ”足が疲れた” とは言わない。 “頭が疲れた” と言う」と語っている。

 自分もゲームを自らのレクリエーションではなく、競技目的でプレイした場合、3、4時間もプレイすると、かなりの空腹感を覚える。プレイ直前に飯屋に行ったにもかかわらずである。

 そんな事情もあり、長らくゲームを ”競技” してきた自分にとっては、オシム監督に言われるまでもなく昔から、スポーツは頭を使って当たり前と考えているのだが。


【「エクストリームスポーツ」とは何か】

 「エクストリームスポーツ」という言葉は、アメリカなどで「Xゲームズ」というスポーツイベント(競技大会)がテレビ放送されたことによって広く知られることになった。

 ところで「エクストリームスポーツ」という言葉をご存知だろうか。これもまたアメリカで生まれたスポーツの新形式で、最近よく話題となっているものである。

 自分がそれを知ったのは、おととし(2004年)あたりの『日経新聞』においてで、“チームワーク、なじめない” といったコピーで紹介していたのを覚えている。「監督の下で一丸となってプレイするのは嫌だ」、「自分らしさを出したい」などの理由から、野球やバスケットといった既存のスポーツからの脱却を図り、あらたに創始したスポーツのジャンルとして説明されていた。「Xゲームズ」というスポーツ大会のTV中継がきっかけで全米に広まったとされる。

 「エクストリームスポーツ」は、まさにスポーツの広範性を代弁するかのような存在であり、その競技は多岐にわたる。

 まず「BMX」(bicycle motocross) は、モトクロスバイクを使ったスポーツで、これは専用のバイクを操り、様々な技を決めて競うものである。フィギュアスケートのように、芸術性を加味したスポーツといえる。

 次に「ホッピング」だが、これも競技となっている。ホッピングは日本では、80年代に流行った先に太いバネが付いた1本足のオモチャで、足をかけるところがあり、それに乗っかってピョンピョン跳ねて遊ぶ。自分の小さい頃はどこかしこにあったオモチャである(自分は、3回も跳べなかったことが未だに悔しい)。

 これをアメリカではスポーツとして真剣に競技されているのだ。日本では子どものオモチャとしてしか認識されていないから、なかなか受け入れづらいのではないだろうか。

 しかし「エクストリームスポーツ」はこのくらいではおさまらず、 “人里離れた場所でアイロン台を広げて服にアイロンがけをする「アイロン・エクストリーム」というものまである。

 こういうのをみると我々はまた、「こんなのがスポーツなのか?」と言いたくなってしまうが、ここはこらえねばならない。そしてあくまで「スポーツの定義」を基準に考えなければならない。

 欧米人は迷信的でなく、かつ論理的思考力がすぐれているので、我々日本人のように、“見た目” にこだわらない。スポーツの定義における条件を満たしていたなら、どんなものでもスポーツだと言い切る。

 その結果として、さらなる新たなスポーツとして生まれたのが、先述の「e-スポーツ」なのである。

 そういえば以前、「なぜ日本では “e-スポーツ” が流行らないのか?」という質問を受けたことがあり、その時はいろいろ考え込んでしまったのだが、今ならこの「文化的違い」を取り上げて、簡単に説明することが出来るだろう。これは決定的要因である。


【 “勤勉” が生んだ「悲劇」】

 ここまでゲームとスポーツの関係において、スポーツの定義に立ち戻って考え、さらに「エキストリームスポーツ」などについても触れてきたが、我が国でゲームがスポーツとしてなかなか認識されない大きな要因をもう一つあげて、締めくくりたい。

 それは「勤勉至上主義」である。

 これについて先述の玉木氏は、こう述べている。

 「日本人とは、遊びが大好きな国民である。遊ぶことが巧みで、遊び上手な民族である。一般的には、日本人は勤勉で遊びが下手と思われている。が、過去の日本文化を並べると、「日本人は遊び好き」としか考えられない事実が浮かびあがる。伎楽、猿楽、田楽、能、狂言、歌舞伎、文楽、相撲、和歌、俳句、茶の湯、生け花、浮世絵、読み本、将棋、囲碁、吉原、島原の遊郭、それに各地に伝わる数々の祭り・・・<遊びをせんとや生まれけむ>という歌謡を、12世紀という時代に歌い踊ったのが日本人である。世界中を探しても、これほど遊興好きの民族は見あたらない。

 ところが明治時代になって、事態は一変する。黒船に驚き、欧米先進諸国の文明に追いつき追い越そうと決意した日本人は、遊びを捨て、もうひとつの民族的特質である勤勉に専念した。そのように、日本人が遊びを捨てた時代に、スポーツが欧米文明のひとつとして流入した。それは日本のスポーツにとって最大の不幸といえる出来事だった」。


 日本人がスポーツに対し “あまり柔軟とは呼べない” 反応しか出来ないのは、大方このような事情があるためなのであろう。

 対して海外は、「エキストリームスポーツ」を見て分かるように極めて柔軟だ。そしてその柔軟性から先述の通り、「e-スポーツ」つまり ”ゲームスポーツ” をも生むこととなったのである。そこには現代日本の我々ように、スポーツ学者でもないのに「これってスポーツなのか?」といって考え込んだり ”ゲームはスポーツなのか?” といった馬鹿なタイトルが生まれたりするような “頭の固さ” はない。

 なお勤勉一辺倒は、何もスポーツに限ったことではない。

 田村正勝・早大教授の著書『新時代の社会哲学』には、日本がバブルに至る経緯が克明に記されているが、それによると、日本は70年代に「成熟飽和経済」に到達し、過剰労働による供給増を止めなければならないところを、過剰供給、過剰輸出により「バブル経済」、その後の「バブル崩壊」、「長期不況」に陥ってしまったとしている。当時は一般労働者のみならず、経営者、大多数の経済学者、政治家までもが、 “勤勉に働けば報われる” と信じていただけに、これは悲劇であったろう。

 だがこれも、現代日本人がゲームを含む「スポーツ」や「娯楽」などに対し、「1円にもならない無駄なもの」、「そんな暇があるなら英単語の一つでも覚える」といった ”勤勉ファシズム” を持っていなければ、この悲劇は防げたかも知れないのだ。

 日本は舵取りを誤ったのか?
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