2006年8月27日の記事です。

【ゲームは “スポーツ” なのか?】

 現在これを、バレーボール「ワールドグランプリ・日韓戦」(女子)のTV中継を観ながら書いている。

 コートでは、柳本ジャパンのメンバーが汗を流して、逆転を信じ、その引き締まった肉体から全力でアタックを叩き込む。

 さて、これこそが我々日本人の “典型的なスポーツ観” と一致することではないだろうか。「スポーツ」とは体を鍛えて、全身を使い、汗水流してするものだと。

 この感覚では、「ゲーム」は、どの角度から見てもスポーツではないことになるだろう。ボタンを押したりレバー、もしくはマウスを回したり、確かに体の一部は使っているが、だからスポーツか、といわれれば、うーんと首を傾げたくなる。

 だが、海外に視野を転ずれば、ゲームは今や「e-スポーツ」とよばれ、れっきとしたスポーツとして認識されている。

 1998年にアメリカで開かれた「QUAKE」とよばれるゲーム大会に端を発するこの「e-スポーツ」は、現在では世界各地で大会が開かれ、プロリーグやそこに所属するプロゲーマーが存在するさまは、プロ野球やプロサッカーと何ら変わりない。

 また韓国の場合は、夜のゴールデンタイムに野球のナイターよろしくゲーム大会が放映されていて、この国のプロゲーマーは他のスポーツ選手同様「社会的地位」を得ている(我が国のように「キモイ」、「オタク」といった負のイメージはない。むしろ「子どもがなりたい職業1位」)。

 といった感じで、海外という範疇においては、「ゲーム」は今度は、どの角度から見てもスポーツであるのだ。

 この日本と海外の違いについては、後でゆっくり述べるとして、そもそも「スポーツ」とは何なのだろうか。


【スポーツの定義とは?】

 スポーツの定義に関しては、玉木正之氏の『スポーツとは何か』(講談社現代新書)が詳しい。

 玉木氏はまず「スポーツの基本は、遊びである」と説明。さらにそれを細かく分析している。

 「スポーツの定義は、国語辞典ならば、 <遊戯・競争・肉体的鍛錬の要素をふくむ身体運動の総称> といった説明でいいのだろう。が、 ”スポーツとは何か?” という命題に対する回答としては、「スポーツ学者の数だけある」といわれるくらい数多く存在する」。

 続けて回答を提示している。

 「①<余暇における余剰エネルギーの消費(浪費)>(多くのスポーツ学者の説)

 ②<遊戯、闘争、および激しい肉体活動の複合されたもの>(ベルナール・ジレ)

 ③<プレイ(遊び)の性格を持ち、自己または他者との競争、あるいは自然の障害との対決をふくむ運動>(ICSPE「国際スポーツ・体育評議会」)」


 以上の説明をみると、いかに「スポーツ」が広い範囲をカバーしているかが分かる。

 もちろんこれは一人の学者の極論というわけではなく、あくまでスポーツ学の常識的立場に立った説明である。

 例えば、「スポーツ学」ではもはやお馴染みであろうフランスの思想家・ロジェ=カイヨワは、遊びを、

 「アゴン(速さ・強さ・技術等を競う競争)」、

 「アレア(運に任せる遊び)」、

 「ミミクリ(変身する擬態の遊び)」、

 「イリンクス(身体と心を混乱に陥れる眩暈めまい)」、


 の4つに分類していて、これまた遊びがスポーツと同根であることを考えると、スポーツが広い意味でとらえられているのが分かり、かつ、遊びがゲームと同義であることから「ゲーム=スポーツ」と認識できるのである。


【「スポーツ=体を使うこと」という幻想】

 さて、スポーツの定義をみても分かるように、スポーツは体を使うことだけが全てではない。それこそ昔は理論を無視した「根性主義」が横行し(甲子園での高校生の “連投” はその悪しき名残り。アメリカでは連投は、人道的・人間科学的見地から禁止)、例えば「Jリーグ」以前のサッカー日本代表などは、「足が折れるまで」を合言葉にしてプレイしていたが、今となってはもはや、時代遅れの認識錯誤となっている。

 それを最近我々に印象付けたのが、新しく就任したサッカー日本代表のオシム監督だろう。

 オシム監督は、「真のサッカー選手は、プレイした後に ”足が疲れた” とは言わない。 “頭が疲れた” と言う」と語っている。

 自分もゲームを自らのレクリエーションではなく、競技目的でプレイした場合、3、4時間もプレイすると、かなりの空腹感を覚える。プレイ直前に飯屋に行ったにもかかわらずである。

 そんな事情もあり、長らくゲームを ”競技” してきた自分にとっては、オシム監督に言われるまでもなく昔から、スポーツは頭を使って当たり前と考えているのだが。


【「エクストリームスポーツ」とは何か】

 「エクストリームスポーツ」という言葉は、アメリカなどで「Xゲームズ」というスポーツイベント(競技大会)がテレビ放送されたことによって広く知られることになった。

 ところで「エクストリームスポーツ」という言葉をご存知だろうか。これもまたアメリカで生まれたスポーツの新形式で、最近よく話題となっているものである。

 自分がそれを知ったのは、おととし(2004年)あたりの『日経新聞』においてで、“チームワーク、なじめない” といったコピーで紹介していたのを覚えている。「監督の下で一丸となってプレイするのは嫌だ」、「自分らしさを出したい」などの理由から、野球やバスケットといった既存のスポーツからの脱却を図り、あらたに創始したスポーツのジャンルとして説明されていた。「Xゲームズ」というスポーツ大会のTV中継がきっかけで全米に広まったとされる。

 「エクストリームスポーツ」は、まさにスポーツの広範性を代弁するかのような存在であり、その競技は多岐にわたる。

 まず「BMX」(bicycle motocross) は、モトクロスバイクを使ったスポーツで、これは専用のバイクを操り、様々な技を決めて競うものである。フィギュアスケートのように、芸術性を加味したスポーツといえる。

 次に「ホッピング」だが、これも競技となっている。ホッピングは日本では、80年代に流行った先に太いバネが付いた1本足のオモチャで、足をかけるところがあり、それに乗っかってピョンピョン跳ねて遊ぶ。自分の小さい頃はどこかしこにあったオモチャである(自分は、3回も跳べなかったことが未だに悔しい)。

 これをアメリカではスポーツとして真剣に競技されているのだ。日本では子どものオモチャとしてしか認識されていないから、なかなか受け入れづらいのではないだろうか。

 しかし「エクストリームスポーツ」はこのくらいではおさまらず、 “人里離れた場所でアイロン台を広げて服にアイロンがけをする「アイロン・エクストリーム」というものまである。

 こういうのをみると我々はまた、「こんなのがスポーツなのか?」と言いたくなってしまうが、ここはこらえねばならない。そしてあくまで「スポーツの定義」を基準に考えなければならない。

 欧米人は迷信的でなく、かつ論理的思考力がすぐれているので、我々日本人のように、“見た目” にこだわらない。スポーツの定義における条件を満たしていたなら、どんなものでもスポーツだと言い切る。

 その結果として、さらなる新たなスポーツとして生まれたのが、先述の「e-スポーツ」なのである。

 そういえば以前、「なぜ日本では “e-スポーツ” が流行らないのか?」という質問を受けたことがあり、その時はいろいろ考え込んでしまったのだが、今ならこの「文化的違い」を取り上げて、簡単に説明することが出来るだろう。これは決定的要因である。


【 “勤勉” が生んだ「悲劇」】

 ここまでゲームとスポーツの関係において、スポーツの定義に立ち戻って考え、さらに「エキストリームスポーツ」などについても触れてきたが、我が国でゲームがスポーツとしてなかなか認識されない大きな要因をもう一つあげて、締めくくりたい。

 それは「勤勉至上主義」である。

 これについて先述の玉木氏は、こう述べている。

 「日本人とは、遊びが大好きな国民である。遊ぶことが巧みで、遊び上手な民族である。一般的には、日本人は勤勉で遊びが下手と思われている。が、過去の日本文化を並べると、「日本人は遊び好き」としか考えられない事実が浮かびあがる。伎楽、猿楽、田楽、能、狂言、歌舞伎、文楽、相撲、和歌、俳句、茶の湯、生け花、浮世絵、読み本、将棋、囲碁、吉原、島原の遊郭、それに各地に伝わる数々の祭り・・・<遊びをせんとや生まれけむ>という歌謡を、12世紀という時代に歌い踊ったのが日本人である。世界中を探しても、これほど遊興好きの民族は見あたらない。

 ところが明治時代になって、事態は一変する。黒船に驚き、欧米先進諸国の文明に追いつき追い越そうと決意した日本人は、遊びを捨て、もうひとつの民族的特質である勤勉に専念した。そのように、日本人が遊びを捨てた時代に、スポーツが欧米文明のひとつとして流入した。それは日本のスポーツにとって最大の不幸といえる出来事だった」。


 日本人がスポーツに対し “あまり柔軟とは呼べない” 反応しか出来ないのは、大方このような事情があるためなのであろう。

 対して海外は、「エキストリームスポーツ」を見て分かるように極めて柔軟だ。そしてその柔軟性から先述の通り、「e-スポーツ」つまり ”ゲームスポーツ” をも生むこととなったのである。そこには現代日本の我々ように、スポーツ学者でもないのに「これってスポーツなのか?」といって考え込んだり ”ゲームはスポーツなのか?” といった馬鹿なタイトルが生まれたりするような “頭の固さ” はない。

 なお勤勉一辺倒は、何もスポーツに限ったことではない。

 田村正勝・早大教授の著書『新時代の社会哲学』には、日本がバブルに至る経緯が克明に記されているが、それによると、日本は70年代に「成熟飽和経済」に到達し、過剰労働による供給増を止めなければならないところを、過剰供給、過剰輸出により「バブル経済」、その後の「バブル崩壊」、「長期不況」に陥ってしまったとしている。当時は一般労働者のみならず、経営者、大多数の経済学者、政治家までもが、 “勤勉に働けば報われる” と信じていただけに、これは悲劇であったろう。

 だがこれも、現代日本人がゲームを含む「スポーツ」や「娯楽」などに対し、「1円にもならない無駄なもの」、「そんな暇があるなら英単語の一つでも覚える」といった ”勤勉ファシズム” を持っていなければ、この悲劇は防げたかも知れないのだ。

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