※2011年3月11日の日記です。
みんな外に避難、そしてエレベーターには、
階数でなくこんな表示が!
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きのう・3月11日、午後2時45分ごろ、大地震が起きた。
宮城県北部で震度7、マグニチュード8.8という、日本で起きた中では最大のものだった。
自分は職場のビル4階にいて、激しい横揺れにイスの下にしゃがみこんでしまった。
「これが東海大地震か、ついに来てしまったのか!」
やけに長い時間を揺れる中、自分は真っ先にそう思った。
重低音の轟音の中、コップの割れる鋭い音がして、職場の人は 「大きい」 、「ヤバイ」 と顔面蒼白、まるで生きた心地がしなかった。
ようやく揺れが収まると、自分達は外に避難することにした。
外はすでに避難した各社社員でひしめいていて、物々しい雰囲気になっている。
自分は早速iPhoneで情報収集を始め、今回の地震が東北の地震で、しかも最大震度 「7」 に至る最悪のものであったことを、知った。
だから直後に実家に安否を知らせる電話をしたのだが、つながらなかった。
回線がパンクしていた。
ネットは重いながらも何とかつながって、お台場の大火事や仙台駅の崩落画像を見て、青ざめた。
自分のiPhone画面を見に来た職場の人も、ただただ驚いていた。
この現状においては、一番早い情報は 「Twitter」 だった。
情報の正確性が非常に疑わしいものの、「家や車が流されている」 といった悲痛な書き込みには、それなりの信憑性を感じていた。
いったんビルに戻り、仕事を再開したものの、その後も余震が続き、もう仕事にならないということで、18時前に帰宅することになった。
陸橋の上まで、人、人、人!
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しかし 「飯田橋」 まで来て、問題に直面した。
まだ電車が動こうとしないのだ。
地震直後、JRも地下鉄も、全部止まってしまった。
3時間以上経った今となっても、動く気配がなく、路上は人で溢れていた。
自分は早く家に帰らねばならない理由があった。
だから、自分は電車を使うのを諦めた。
そして、この飯田橋から家までの10キロの道のりを、走ることにした。
東京でこんな光景を見ることになろうとは。
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大通りに出ると、まさに信じられない光景だった。
祭りでもないのに、鈴なりになって歩道を歩く人、その横の車道はクルマで大渋滞となって、全然進まない。
しかし何というか、こんな所で使えるものなのか、ゲームで培った動体視力が非常に効果を発揮した。
わずかに空いた “人の隙間” を見つけては、「八艘飛び」(はっそうとび) でヒョイヒョイと飛び抜けていくことができた。
目の前の人でなく、2、3人先の人を見るようにしてやるのがコツだ。
防災装備の人や、卒業式なのか、袴姿の子も。
晴れ晴れしい日にこんな目に遭うなんて…。
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しかしどうしても避けられない人混みもあり、さらに重い服装や中身の詰まったカバンを持った状況ではそんなに長く走れるものではない。
ひたすら走り、飛び、阻まれて歩く時に体力回復、そしてまた走り、飛ぶ。
自転車屋に、まさかの人だかりが!
その目的とは?
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すると、ただでさえ人が多い中、あるお店に物凄い人が殺到しているのを見つけた。
自転車屋だった。
何と、この場で自転車を買って、それに乗って帰宅しようというのだ。
「そこまでやるかぁ!」(30代・サラリーマン)、「チャリ買ってるー、ウケるー」(20代・OL) というふざけた声の中、「タクシーで遠くまで帰るくらいなら、1万円で自転車を買ったほうが賢いじゃん」(20代・サラリーマン) という意見もあった。
実際のところ、自転車という選択は、非常に効果的だった。
なぜなら歩道は人だらけで、歩くと何時間かかるか分からない。
だからといって、バスやタクシーに乗ったところで、あまりの渋滞にロクに進みやしない。
だったら車道の隙間を縫って自転車で帰るというのは、非常に合理的だ。
現在、まさにその通りの光景が繰り広げられていて、この被災地・東京で一番スイスイ動いていたのは、上空を飛ぶマスコミのヘリと、この自転車だったのである!
いつも自転車に乗っている自分は、走りながらも、ただただ悔しかった。
なぜ電車で通勤してしまったのか…と!
それにしても、これほど自転車がブルジョワジーだったことが、過去にあっただろうか!
意外と早く着いた?
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飯田橋を18時10分に出発、ひたすら走って、ついに 「新宿御苑」 まで来た。
時計を見ると18時48分、所要時間38分は人混みがなければひどく遅いものだが、この状況では比較的早かったのではないか、と思う。
理由は人混み避けだけでなく、別にもあって、それは “抜け道” を使ったことだ。
日常的に自転車で都心を走り回っていたので、ショートカットするルートをいくつも知っていて、そこは人がさほど歩いていなかったので、スイスイ進めたというわけだ。
新宿南口が見えてきた。
街頭ビジョンには、衝撃的な映像が。
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しかし、新宿御苑から新宿への抜け道は大してなく、大通りに戻ると、凄い人混みに巻き込まれてしまった。
歩道を人々がパンケーキのように膨れて歩き、なかなか隙間が見つからない。
とにかく自分は早く帰りたいのだ、いや、帰らねばいけない理由があるんだ。
ここでかなりの時間のロスをしたものの、何とか新宿南口が見えてきた。
すると街頭ビジョンには、「マグニチュード8.8の、日本最大級のもの」 だったことを、自分はここで知ったのだった。
周囲の帰宅難民も 「信じられない…」 「この世の終わりのよう」 と、ただただ狼狽していた。
電車運行の復旧のメドは全く立たず。
既に2、3社ほど、マスコミが待機。
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「新宿南口」 に着いたのは、19時03分だった。
新宿御苑からさほど離れていなかったものの、人混みに阻まれ、なかなか走ることが出来なかった。
駅前は予想通りというべきか、群集とマスコミの渦と化していた。
新宿西口方面の交差点。
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家に帰るには、ここ新宿南口から 「初台」 方面に向かわねばならなかったが、とにかく人が多く、新宿西口方面の交差点あたりは、人とクルマしか見えなかった。
ここを通過するだけで5分以上かかり、新宿駅前を抜けてからも人混みに悩まされた。
人混みのほとんどが帰宅難民ということで、進む方向が同じなのが唯一の救いだったが、もはやこの大通り “甲州街道” を走るのは限界があった。
初台手前で右折。
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しかし、もう少し頑張れば、とっておきの抜け道がある。
自分は 「八艘飛び」 を繰り返しながら、何とか 「初台」 近辺まで走っていき、そこから急に右折した。
右折して100メートル走ったところから、“水道道路” という抜け道があるからだ。
“水道道路” に到達。
なお、飲食店はどこも満席という皮肉。
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ほどなくして “水道道路” に到達。
ここからは、ほぼ一直線で家に帰れる。
“水道道路” はまさにアタリで、人はさほど歩いていなかった。
ここぞとばかりに、また気を振り絞って、走り出す。
こういう高層ビルは、上の方が
凄く揺れて、怖いことになる。
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「初台」 のやや南に位置するオペラシティに到達したのは、19時20分だった。
やはり抜け道の効果があり、17分で新宿南口から走ってこれた。
さらに全力で走って、早く家に帰ろう、かつて帰宅部だった誇りを胸に、ベストを尽くすんだ…。
しかし、ここにきて自分に異変が起きた。
頻繁に息が切れるようになり、さらに悪いことに、脇腹に鋭い痛みが走り始めた。
「はあ、はあ、だるい、つらい、苦しい…」 自分はうめき続けながらも、走るのをやめなかった。
時折、人混みに出くわすと、キレた時のもののけ姫のような形相で、飛び抜けていく。
しかし、その愚かしいヤセ我慢もいよいよ限界が来て、ついに動けなくなった。
もう汗だくで、しかも花粉を大量吸引したことで、鼻水まみれでもある。
「自分はどうして120%の力が出せないのか!」 悔しくてしょうがなかった。
いやそれより、自分は今朝、どうしてあんなミスを犯してしまったのか、それがなければ、こんなになってまで走って帰ることもなかった。
頭がクラクラするし、走るのはおろか、もう歩くのもツラかった。
しかし、そんな時だった。
自分が “ある事” を思い出したのは……!
この辺まで来ると、人もまばらに。
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19時38分に、「笹塚」 の南にある10号通り商店街前に到達。
そこには笑顔で走る自分の姿が。
いや別に、“笑顔” というのは比喩などではなく、実際に笑顔で走っていたのだ。
ついにおかしくなったのか!?
その姿に、他の帰宅難民が振り返っては、ドン引きしていく。
もちろんおかしくなってなんか、ない。
実は作り笑顔でもいいから、笑ってみると、人間の運動能力のリミッターがわずかに外れ、普段より早く走れたりするのだ。
このメカニズムはスポーツ科学で証明されていて、それをTVで見たのを思い出したのである!
またありがたいことに、脇腹の痛みも治まっていて、順調に走れるようになったのだ。
マンションだろうか、
一部が崩れて、立ち入り禁止に!
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しかし今回は未曾有の大地震である、最後に関門が待っていた。
歩道の横のマンションと思われる建物が、一部に壁崩れが起きて、歩道に破片が落下、警察によって立ち入り禁止にされていたのだ。
しょうがないので、車道に出てここを抜けた。
これを見ると、ウチはもうすぐと、いつも安心する。
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19時43分に、「笹塚」 の南にある朝日生命代田橋ビル前まで到達。
ここまで来ると、「明大前」 にある我が家ももうすぐだ。
自分は最後の力を振り絞って、撮影以外では、ただひたすらに走った。
近所にあるスーパー。
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そしてついに我が家に到着!
距離は10キロ、所要時間は “1時間45分” だった。
そしてマンションの外見はいつもどおりで、すぐにドアを開けるとガスの元栓を閉めた。
さて、自分が 「飯田橋」 から我が家までの10キロを、なぜ死にもの狂いで走ったかという理由だが、実はこの 「ガスの元栓を閉め忘れ」 だったりする。
いや、正確には “ガスの元栓を閉める習慣がなかった” というべきだ。
午後2時台に起きた今回の 「東日本巨大地震」 の後も、大きな余震が何度も起きていた。
もし本震でガスから火が出なかったとしても、その後の余震で起きないとは限らない。
いや、本震で崩れなかった家が、余震で崩れた例はいくらでもある。
そう思うと、怖くて怖くて仕方がなかった。
早く家のガスの元栓を閉めないと…仕事が終わるまで、ただそれだけが気になってしょうがなかった。
そして結果として、終業後に死ぬ気で都内を疾走するというはめになった。
「たかがガスの元栓」 というのは、まさに平常時の話だったことを、今回の地震で思い知らされる結果となったのだった。
蛍光灯 (傘つきで予備のもの) や、
トースターが落下。
トースターは完全に壊れ、廃棄することに。
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横積みしていたCDや小物類は、
簡単に滑り落ちた。 PCモニターは
すんでの所で踏みとどまった。
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一番酷かったのは、コレ。
台所のシンク下のドアが
割れてしまった。
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とまあ、軽微ながらも被害が出た。
自分は今日中に、防災用品の “つっかえ棒” を買いに行こうかと思う。
これは都内を走っていた時に帰宅難民から聞こえてきた話だが、「何だかんだいって、今後確実に起きる東海大地震の予行演習になったよね」 というのがあった。
まあ本人が無事でいられたから言える言葉なのだろうが、しかし、言い得て妙である。
これを機に、ガスの元栓を気にして、防災用品を買おうと思う人が確実に増えるだろうから。
というか、この期に及んでは、そうしたほうがいい。
でないと、ガスの元栓1つで10キロを疾走する目に遭うなんてこともあるかも知れない。