「ゲームの1位」 は、社会で認められるか?

2007年8月25日の記事です。

スポーツスタジアム・無事終了の打ち上げ
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 さて、今回はかなり趣向を変えて、とある「実験」をしてみた(いつも理論じゃつまらないかと)。
 今回、実験をやってみようと思い立ったのは、 Eスポーツスタジアム の運営者を中心に、先日の大会(2007.8)の ”打ち上げ” をやろう、という話が来たことによる。
 打ち上げ会場は、新宿の ”酒を持ち込める” 中華料理屋(料理が旨く、居酒屋としても極めてリーズナブル!)とのことで、下調べにそこのHPを覗いた時のことだった。

  上海小吃 (新宿・歌舞伎町)

 ここの「来店サービス」について眺めていた時だった。あっと思ったものがあった。
 それは、 「各ジャンルで『1位』になった方にはワインをサービス」 というものだった。
 内容を真剣に見てみると・・・


 何とスポーツの1位も認めてくれるというではないか! ・・・これはさぞかし、ゲーム競技の1位もOKなんだろう・・・というより、自分にとって基本的に1位とは、 ”ゲーム競技の1位” を指し、最初から、それ以外の何者でもないのであるが。

 ともあれこうして自分は、「実験」をやってみようと思い立ったわけである。

 さて自分にとってのゲーム競技は、格ゲーやFPS対戦ではなく、「ハイスコア」なので、そこでの「全国一位記録」を使うことになり、具体的には、アーケードゲーム誌の「アルカディア」に記載された自分の「全国一位記録」を用いることにする。

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 過去の全国一位記事をいろいろ掘り返してみたが、やはりこの記事(STG『ピンクスゥイーツ』の初回集計)が、ちょうどいい感じで「1位」と明記されているので、ゲーム誌をあまり見ない人でも、すぐに理解してもらえるだろう。
 幸いというべきか、自分の身分証の実名とスコアネームが同じのため、更に分かりやすくていいい。
 (※スコアネームと実名が同じなのは、10年以上前からで、別にこの日のために ”狙った” というわけではない)

 そして今月8月21日、満を持して、打ち上げと実験を兼ね、会場の「上海小吃」へ。
 「上海小吃」は、まだEスタの仲間があまり集まっていなかったが、久々に会う顔がいっぱいあり、しばし懐かしんだ。
 ただそれも束の間、この ”1位ワインサービス” は、来店時に申し出なければならない。

 積もる話もそこそこに、自分は早速ゲーム雑誌片手に、今回の「週刊」の題名どおり、「ゲームの1位」が社会で認められるか、試すことになった。

 ただこの実験を試す前に、「ゲーマーの社会的地位」について、軽く振り返っておきたい。


ームにハマっていることを
ひた隠しにするゲーマー

 WiiやDSの好調により、これまで縮小傾向にあったゲーム産業は、一気に勢いを盛り返し(ブーム火付け役の任天堂は、1兆円企業に躍り出た)。
 こういった最近のニュースは非常に喜ばしいし、今後もいろんな層にゲームが受け入れられていけば、と思う。

 しかしそれはあくまで「ゲームそのもの」(あるいは産業として)が認められたわけであり、「ゲーマー」が認められたことでは、一切無い。それゆえ当HPは、「ゲーマー」の地位向上を開設時から謳っていて、その現状を少しでも変えられないか、模索し続けているわけである。そして無論、今回の「Eスタ」運営協力も、その一環である(何のために ”プロゲーマーWEB” と銘打ってあるか、再確認していただければ幸いです!) 。

 またさらに厳密にいえば、こうやってやっと認められた「ゲーム」の方でさえ、それが ”他の多くの趣味とともに遊ばれる” ことを期待されていて、 ”ゲームにどっぷりハマる” ことについては、まだまだ否定的である。
 ここであくまで求められるのは、「Wiiのある新しい生活」であり、「Wiiばかりの新しい生活」ではない。

 最近友達から借りた、ゲーセンでシューティングゲームにハマっていく高校生の成長を描いた本『連射王』(川上稔)にもあったが、やはり主人公は自らがゲーセンでハマりまくっている事を、親はもちろん、友人にさえ自らがゲーセンに通っていることを ”ひた隠し” にしている。
 例えば、日夜練習に励んで甲子園を目指す「野球少年」や、高価な機材をそろえて音楽活動に精を出す「バンドマン」・・・彼らは社会から好意的に見られても、生活が厳しい以外にこれといったネガティブなイメージはない。 いやまず何より、彼らを ”オタク” と呼ぶ習慣すらないだろう。

 ゲーマーは違う。ゲーマーはれっきとしたオタクであり、暗い、キモイ、狂っている、という ”3Kイメージ” で見られがちであるし、ややもすれば、犯罪を起こした少年の趣味として槍玉に挙げられることすら、これまで何度もあった。
 残念ながら現時点では、技を見せて観客を魅了しても、片やヤンキースの松井秀喜は ”スポーツのプロフェッショナル” で、片やゲーム大会優勝者は、 ”ただのオタク” である。

 そういう意味においては、一般ゲーマーであろうと、大会優勝者や全国一位スコア獲得者であろうと、残念ながら「極めて ”平等” に ”差別” される」


して遂に申し出る。 結果は・・・!

 さて、そんなバックグラウンドが重くひかえている中で、果たして「ゲームの1位」は認められるのだろうか?

 Eスタメンバーが続々と店内に集まる中、自分は思いきって、店長に申し出ることにした。
 事情を話したEスタのメンバーからは、「頑張れ!」と檄が飛ぶ。

 店長は厨房で忙しくしていたが、今しかないと思って話しかける。 ”ナンバー1のサービス” についてですが、ゲームのハイスコア全国集計で1位になったんで、いやその、ワインをサービスしていただけないかな、と・・・。

 ゲームをれっきとしたスポーツととらえる当HPの性質上、こういったことは決して恥ずかしがってはならず、むしろ当然のことのように申し出なければならないわけだが、それでもドキドキしてしまう。
 こんなこと言って変な奴とか思われないか(既に変ですけど)、最悪、「お前は何を言ってるんだ? そのまま帰れ」とか言われるのではないか、と内心はかなり心配していたのである。

 店長は自分が差し出した「アルカディア」(アーケードゲーム誌)のハイスコア全国一位ページをマジマジと見て、一瞬固まったように見えた。

 そりゃそうだろうな、ゲームの「ゲ」の字も知らないであろうご年配の店長さんに、いきなりゲームもスポーツで、その1位を認定しろ、と言っているわけなんだから。無理難題を押し付けたも同然だ・・・。

 反応を見て自分がやっぱダメか、とあきらめかけた時のことだった。店長は自分の名前を指差して「これですね、分かりました。じゃ、このページをコピーして再度お持ち下さい」と言って、10円玉を手渡してくれた!
 やった、と思った瞬間だった。コピーを要求するとは、「1位証明文書」としてそれを認定するということだ。自分が慌ててコピーし、店長に手渡したのは言うまでもない。

 みんなが席につくころ、件のワインも運ばれてきて、今度は事情を知った全員が、大ウケしただけでなく、「おめでとう!」と祝福してくれたことが、とても嬉しかった。

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乾杯!!
(※ ただしこういった成功例は、あくまで一例です)

 いずれ、この「ハイスコア全国一位によるワイン無料化大成功」を、”これはあくまで一例です” と 但し書きすることのがなくなる時代が来る日まで、これからも頑張っていきたい。

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おまけ : これが 「豚の脳ミソ」
(味があまりに ”タラの白子” に似ていて、驚いた!)

ゲームは ”スポーツ” なのか?

2006年8月27日の記事です。

【ゲームは “スポーツ” なのか?】

 現在これを、バレーボール「ワールドグランプリ・日韓戦」(女子)のTV中継を観ながら書いている。

 コートでは、柳本ジャパンのメンバーが汗を流して、逆転を信じ、その引き締まった肉体から全力でアタックを叩き込む。

 さて、これこそが我々日本人の “典型的なスポーツ観” と一致することではないだろうか。「スポーツ」とは体を鍛えて、全身を使い、汗水流してするものだと。

 この感覚では、「ゲーム」は、どの角度から見てもスポーツではないことになるだろう。ボタンを押したりレバー、もしくはマウスを回したり、確かに体の一部は使っているが、だからスポーツか、といわれれば、うーんと首を傾げたくなる。

 だが、海外に視野を転ずれば、ゲームは今や「e-スポーツ」とよばれ、れっきとしたスポーツとして認識されている。

 1998年にアメリカで開かれた「QUAKE」とよばれるゲーム大会に端を発するこの「e-スポーツ」は、現在では世界各地で大会が開かれ、プロリーグやそこに所属するプロゲーマーが存在するさまは、プロ野球やプロサッカーと何ら変わりない。

 また韓国の場合は、夜のゴールデンタイムに野球のナイターよろしくゲーム大会が放映されていて、この国のプロゲーマーは他のスポーツ選手同様「社会的地位」を得ている(我が国のように「キモイ」、「オタク」といった負のイメージはない。むしろ「子どもがなりたい職業1位」)。

 といった感じで、海外という範疇においては、「ゲーム」は今度は、どの角度から見てもスポーツであるのだ。

 この日本と海外の違いについては、後でゆっくり述べるとして、そもそも「スポーツ」とは何なのだろうか。


【スポーツの定義とは?】

 スポーツの定義に関しては、玉木正之氏の『スポーツとは何か』(講談社現代新書)が詳しい。

 玉木氏はまず「スポーツの基本は、遊びである」と説明。さらにそれを細かく分析している。

 「スポーツの定義は、国語辞典ならば、 <遊戯・競争・肉体的鍛錬の要素をふくむ身体運動の総称> といった説明でいいのだろう。が、 ”スポーツとは何か?” という命題に対する回答としては、「スポーツ学者の数だけある」といわれるくらい数多く存在する」。

 続けて回答を提示している。

 「①<余暇における余剰エネルギーの消費(浪費)>(多くのスポーツ学者の説)

 ②<遊戯、闘争、および激しい肉体活動の複合されたもの>(ベルナール・ジレ)

 ③<プレイ(遊び)の性格を持ち、自己または他者との競争、あるいは自然の障害との対決をふくむ運動>(ICSPE「国際スポーツ・体育評議会」)」


 以上の説明をみると、いかに「スポーツ」が広い範囲をカバーしているかが分かる。

 もちろんこれは一人の学者の極論というわけではなく、あくまでスポーツ学の常識的立場に立った説明である。

 例えば、「スポーツ学」ではもはやお馴染みであろうフランスの思想家・ロジェ=カイヨワは、遊びを、

 「アゴン(速さ・強さ・技術等を競う競争)」、

 「アレア(運に任せる遊び)」、

 「ミミクリ(変身する擬態の遊び)」、

 「イリンクス(身体と心を混乱に陥れる眩暈めまい)」、


 の4つに分類していて、これまた遊びがスポーツと同根であることを考えると、スポーツが広い意味でとらえられているのが分かり、かつ、遊びがゲームと同義であることから「ゲーム=スポーツ」と認識できるのである。


【「スポーツ=体を使うこと」という幻想】

 さて、スポーツの定義をみても分かるように、スポーツは体を使うことだけが全てではない。それこそ昔は理論を無視した「根性主義」が横行し(甲子園での高校生の “連投” はその悪しき名残り。アメリカでは連投は、人道的・人間科学的見地から禁止)、例えば「Jリーグ」以前のサッカー日本代表などは、「足が折れるまで」を合言葉にしてプレイしていたが、今となってはもはや、時代遅れの認識錯誤となっている。

 それを最近我々に印象付けたのが、新しく就任したサッカー日本代表のオシム監督だろう。

 オシム監督は、「真のサッカー選手は、プレイした後に ”足が疲れた” とは言わない。 “頭が疲れた” と言う」と語っている。

 自分もゲームを自らのレクリエーションではなく、競技目的でプレイした場合、3、4時間もプレイすると、かなりの空腹感を覚える。プレイ直前に飯屋に行ったにもかかわらずである。

 そんな事情もあり、長らくゲームを ”競技” してきた自分にとっては、オシム監督に言われるまでもなく昔から、スポーツは頭を使って当たり前と考えているのだが。


【「エクストリームスポーツ」とは何か】

 「エクストリームスポーツ」という言葉は、アメリカなどで「Xゲームズ」というスポーツイベント(競技大会)がテレビ放送されたことによって広く知られることになった。

 ところで「エクストリームスポーツ」という言葉をご存知だろうか。これもまたアメリカで生まれたスポーツの新形式で、最近よく話題となっているものである。

 自分がそれを知ったのは、おととし(2004年)あたりの『日経新聞』においてで、“チームワーク、なじめない” といったコピーで紹介していたのを覚えている。「監督の下で一丸となってプレイするのは嫌だ」、「自分らしさを出したい」などの理由から、野球やバスケットといった既存のスポーツからの脱却を図り、あらたに創始したスポーツのジャンルとして説明されていた。「Xゲームズ」というスポーツ大会のTV中継がきっかけで全米に広まったとされる。

 「エクストリームスポーツ」は、まさにスポーツの広範性を代弁するかのような存在であり、その競技は多岐にわたる。

 まず「BMX」(bicycle motocross) は、モトクロスバイクを使ったスポーツで、これは専用のバイクを操り、様々な技を決めて競うものである。フィギュアスケートのように、芸術性を加味したスポーツといえる。

 次に「ホッピング」だが、これも競技となっている。ホッピングは日本では、80年代に流行った先に太いバネが付いた1本足のオモチャで、足をかけるところがあり、それに乗っかってピョンピョン跳ねて遊ぶ。自分の小さい頃はどこかしこにあったオモチャである(自分は、3回も跳べなかったことが未だに悔しい)。

 これをアメリカではスポーツとして真剣に競技されているのだ。日本では子どものオモチャとしてしか認識されていないから、なかなか受け入れづらいのではないだろうか。

 しかし「エクストリームスポーツ」はこのくらいではおさまらず、 “人里離れた場所でアイロン台を広げて服にアイロンがけをする「アイロン・エクストリーム」というものまである。

 こういうのをみると我々はまた、「こんなのがスポーツなのか?」と言いたくなってしまうが、ここはこらえねばならない。そしてあくまで「スポーツの定義」を基準に考えなければならない。

 欧米人は迷信的でなく、かつ論理的思考力がすぐれているので、我々日本人のように、“見た目” にこだわらない。スポーツの定義における条件を満たしていたなら、どんなものでもスポーツだと言い切る。

 その結果として、さらなる新たなスポーツとして生まれたのが、先述の「e-スポーツ」なのである。

 そういえば以前、「なぜ日本では “e-スポーツ” が流行らないのか?」という質問を受けたことがあり、その時はいろいろ考え込んでしまったのだが、今ならこの「文化的違い」を取り上げて、簡単に説明することが出来るだろう。これは決定的要因である。


【 “勤勉” が生んだ「悲劇」】

 ここまでゲームとスポーツの関係において、スポーツの定義に立ち戻って考え、さらに「エキストリームスポーツ」などについても触れてきたが、我が国でゲームがスポーツとしてなかなか認識されない大きな要因をもう一つあげて、締めくくりたい。

 それは「勤勉至上主義」である。

 これについて先述の玉木氏は、こう述べている。

 「日本人とは、遊びが大好きな国民である。遊ぶことが巧みで、遊び上手な民族である。一般的には、日本人は勤勉で遊びが下手と思われている。が、過去の日本文化を並べると、「日本人は遊び好き」としか考えられない事実が浮かびあがる。伎楽、猿楽、田楽、能、狂言、歌舞伎、文楽、相撲、和歌、俳句、茶の湯、生け花、浮世絵、読み本、将棋、囲碁、吉原、島原の遊郭、それに各地に伝わる数々の祭り・・・<遊びをせんとや生まれけむ>という歌謡を、12世紀という時代に歌い踊ったのが日本人である。世界中を探しても、これほど遊興好きの民族は見あたらない。

 ところが明治時代になって、事態は一変する。黒船に驚き、欧米先進諸国の文明に追いつき追い越そうと決意した日本人は、遊びを捨て、もうひとつの民族的特質である勤勉に専念した。そのように、日本人が遊びを捨てた時代に、スポーツが欧米文明のひとつとして流入した。それは日本のスポーツにとって最大の不幸といえる出来事だった」。


 日本人がスポーツに対し “あまり柔軟とは呼べない” 反応しか出来ないのは、大方このような事情があるためなのであろう。

 対して海外は、「エキストリームスポーツ」を見て分かるように極めて柔軟だ。そしてその柔軟性から先述の通り、「e-スポーツ」つまり ”ゲームスポーツ” をも生むこととなったのである。そこには現代日本の我々ように、スポーツ学者でもないのに「これってスポーツなのか?」といって考え込んだり ”ゲームはスポーツなのか?” といった馬鹿なタイトルが生まれたりするような “頭の固さ” はない。

 なお勤勉一辺倒は、何もスポーツに限ったことではない。

 田村正勝・早大教授の著書『新時代の社会哲学』には、日本がバブルに至る経緯が克明に記されているが、それによると、日本は70年代に「成熟飽和経済」に到達し、過剰労働による供給増を止めなければならないところを、過剰供給、過剰輸出により「バブル経済」、その後の「バブル崩壊」、「長期不況」に陥ってしまったとしている。当時は一般労働者のみならず、経営者、大多数の経済学者、政治家までもが、 “勤勉に働けば報われる” と信じていただけに、これは悲劇であったろう。

 だがこれも、現代日本人がゲームを含む「スポーツ」や「娯楽」などに対し、「1円にもならない無駄なもの」、「そんな暇があるなら英単語の一つでも覚える」といった ”勤勉ファシズム” を持っていなければ、この悲劇は防げたかも知れないのだ。

 日本は舵取りを誤ったのか?

プロゲーマー化構想 (2)

2006年4月30日の記事です。

【厳しすぎる日本の「プロゲーマー化」】

 「プロゲーマー構想」も今回で2回目である。前回は1年前だったが、あれから世界のプロゲーム(競技)産業はまた大きく伸び、最高2000万円といわれていたプロゲーマーの年収も、米韓ともに「1億円」を越えた。

 一方、我が日本はそんなものはないかのごとく、相変わらずな、そして厳しい現実が立ちはだかっている。

 今流行っているゲームのシステムの多くは、日本が作ったもので、ゲームの元祖はアメリカのコンピューター・ゲームだとしても、日本は「中興の祖」くらいの地位にあり、その意味でゲームは「世界に誇る日本の文化」であることは間違いない。

 にもかかわらず、日本のゲームに対する評価はその「経済的評価」(どのくらいの市場の大きさかといった)を除けば、驚くほど低い。これは80年あたりの「インベーダーブーム」に対するマスコミや教育関係者の植え付けた「悪のイメージ」が現在も尾を引いていることによるが、これがついには今日の「国民的勘違い」にまで波及してしまったことは、悲劇的でさえある。

 低い国民的認識を如実に示した事件が、あの「 ”ゲーム脳” 騒動」(2003年)だろう。「ゲームをすると痴呆のような症状が現れ、キレやすい人間に育つ」と提唱した森昭雄・日本大学教授が出現し、その間違った脳波測定法や根拠のない推測で、「ゲーム脳」というキャッチコピーまで生み出して(膿み出して)しまった。

 そんな中で「プロゲーマー」について調べようと思えば大変だ。例えば「プロ野球」について調べるなら簡単で、ネットスポーツ新聞を見るのもよし、「日本野球機構」のHPに行くもよし、情報はすぐに集まる。

 だが「プロゲーマー」となると、そうはいかない。検索にかけてもどこかの「プロゲーマーチーム」がヒットするでもなし、「(社)日本プロゲーマー協会」(あってもよさそうだが、存在しない)がヒットするでもなし、大抵ヒットするのは、プロゲーマーについて過去に一、二度くらい取り上げたことのあるニュースサイトか、自分のHPくらいのものである。とりわけ、異様に何度もヒットする自分のHPやブログを ”よけながら” 探し回るさまは、実になさけない。

 さらに、この前日テレの『ズームインSUPER』を観ていたら、「何でも、ゲームをプレイすることで収入を得ている人がいるそうですよ」というレポーターに、キャスターが「えっ?!」と驚いていた。

 それだけ日本には「プロゲーマー」が根付いていないのである。


【日本がプロ化するための方法は?】

 「プロゲーマー」をどうやって認知させるかはひとまず置いておいて、ここで日本が海外のようにプロ化するためにはどのような方法があるか、具体的に見ていきたい。

《PCオンラインの場合》

 まず手っ取り早い方法として考えられるのは、世界的規模のプロゲーム大会「WCG」や「CPL」を日本に誘致することがあげられる。もし可能なら、否応なく国内でもプロゲーマーの存在が話題にのぼるだろう。

 しかしこれは話題作りの一環に過ぎず、真にプロ化を目指すなら、国内でプロリーグを作って年に数十試合はこなすことだろう。これまでのように、海外の試合に上手いゲーマーを送り込んでいる ”出稼ぎ” システムでは、海外にいける人数に制限が生まれる。なぜなら、渡航費の関係で、誰でも気軽に海外に行けるわけでもなく、実力があってもカネがないゲーマーなどは行けず、うまくプロが育たないからである。

 ただ、上記「WCG」や「CPL」は、独自に日本代表を選考して送り込んでいるようだが、その二つの大会のみでプレイヤーが生計を立てるのはやはり厳しいといわねばならない。

 したがって、国内で多くの試合をして上位プレイヤーには生活が保障され、他方、一挙に多くの新人プレイヤーを育成できる「国内リーグ」創設こそが必要不可欠な方法となってくる。

 いきなり国内リーグ創設は困難なので、無リーグ制の「国内試合」を行い、スポンサーに見てもらうことから始めてはいかがだろうか。

 ともあれ何より、「(社)日本プロゲーマー協会」がまだ作れないにせよ、それに先行するようなHPを積極的にどんどん立ち上げていくべきだろう。「プロゲーマー」検索で1番目に過去のニュースサイトの記事、2番目に自分のHPが来ているようでは、かなり厳しいものがある。

《アーケード(対戦格闘)の場合》

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 試合形式がPCと変わらないため、PCと同じ方法が使える。そればかりでなく、上の図が示す通り、「PCと合同でプロ化する」のが最も有効な方法ではないかと考えている。

 それはいうまでもなく、韓国と日本の立場の違いからであり、韓国の場合、PCオンラインゲームがゲームの主流を占めているのに対し、日本の場合はPCと共にアーケードなども非常に盛り上がっているためである。

 したがって、自分はPCのみのプロ化にこだわるべきでないと考えるし、PC、アーケード合同で一大国内大会を開催した方が効率的であるし、そちらの方がむいろ、世間の耳目も集めるのではないだろうか。

 他方、現在的な視点でとらえると、アーケードでは「闘劇」という ”ゲームジャンル別格闘ゲーム全国大会” が盛んである。現時点では、この大会で出る賞金はゼロに近いが、この大会でスポンサーを増やし、お金が集まったところでそれを上位プレイヤーに還元できるかが、今後のカギだろう。

 もし、スポンサーが集まらなかったり、カネを運営者側で押さえてしまうような状況に陥れば、終わりである。

《アーケード(シューティングなど ”非格闘” のもの)、家庭用の場合》

 PCやアーケード格ゲーと違い、辛いのがこのジャンルである。対戦形式でないために勝敗も付かず、ファイトマネーももらえない。しかしこのジャンルにおいても、ちゃんとプロ化する方策がある。

 それは、プレイヤーがプレイした映像をDVDにして販売する方法である。これまでのプロゲーマー像と比べると、どちらかというと歌手や作家に近い。

 となると、プレイの報酬形態は歌手や作家と同様、定価の○○%という「歩合制」を取るべきである。自分はこの「歩合制」こそ、このジャンルにおいてプロゲーマー化するための「絶対に譲ってはならない最低条件」だと考えている。

 具体的には、「DVD定価の10%以上」なければ、到底生きていくことは出来ないだろう。

 しかし残念なことに、最近の傾向では、数万から十数万程度のカネを渡されて「権利を買い取られる」か、コンビニのバイト程度の時給を、収録時にもらってそれで終わり、という信じられない「大安売り」を強いられている。

 もちろんそうした方が(プレイヤーから安く買い叩いた方が)、メーカーにとってコストダウンが図れ、結構なことなのだろうが、それによって上手いプレイヤーが食えなくなって、どんどん辞めていくことで、結局その弊害はメーカー自身に返ってくるのである。

 プレイヤーとメーカーが、いい条件でお互い協力して初めて、このビジネスが成立するのである。


【プロ化を阻む問題~「社会」の認識の低さ~】

アメリカ韓国日本
職業的的地位プロスポーツ選手として
確立
プロスポーツ選手として
確立
職業としてほとんど
成立していない
年収数百万~1億円200万~1億円0円~10万円
社会の評価いいものはいいと
正当に認められる
(合理的思考)
スポーツマンであり、エリート
(その明晰な頭脳を
軍が欲しがっている)
キモイ
オタク
定職に就かないフリーター
カネの無駄遣い
時間の無駄遣い
犯罪予備軍
頭が悪い
社会の落伍者
気が狂っている

 まずは上のグラフを見てもらいたい。これが端的に示した「日本のコアなゲーマーと海外のプロゲーマーの差」である。

 こうやって見ると海外との差は一目瞭然で、よくもここまで差をつけられたものかと、思わず感心してしまう。

 まあそれにしても、「社会的評価~日本」の項目は、絶望的な文句が並び過ぎではないか、と憤慨される方もおられるかも知れない。しかし非常に遺憾なことだが、これら全て、ゲーマーの自分がここ10年の間に浴びせられた言葉である。

 もちろんこれは、ゲームを生活のアクセントとしてたしなむ程度の「ライトユーザー」のことではなく、ゲームが完全に生活の大部分を占めるようなマニアを指しての評価であるが、それでもその評価の低さに唖然とさせられる。

 そして、このような社会的評価の低さこそ、「プロゲーマー化」のための大きな障壁の一つとなっている。当然である。どんな企業人も、「こんな者」相手にビジネスをしようなど、思いもつかないだろう。

 どうしてもこの国は相手を ”見た目” で判断してしまう。見た目の時点で「キモイ」と思ってしまうとそこで思考停止してしまい、内容を見ようとしなくなる。

 先の章で触れた「ゲーム脳騒動」がその好例であろう。

 アメリカやヨーロッパにも、日本の「ゲーム脳騒動」が伝わったが、あまりに非論理的なので、一笑に付されている。にもかかわらず我が国では、その真偽も見極めずにTVで取り上げたり、ゲームを「悪」と信じた自称教育者や教育ママが、オウム信者さながらに、こぞって森昭雄講演会に通いつめている(一部とはいえ)。

 21世紀になってまで、未だ ”迷信” に支配されているのかと思うと、嘆かわしい現実だ。これが欧米との「教育の差」なのだろうか。

 この「国民的マインドコントロール」を解く方法は、直接的にそれは間違っているよ、と指摘するのではなく、「客観的データ」をいくつも提示し、相手が自然と考え方を変えるのを待つのが最良だとされている(参考文献:『マインドコントロールの恐怖』スティーブン・ハッサン著 浅見定雄訳 恒友出版)。

 ここでは社会の偏見を解き、プロゲーマー化にこぎ着けるわけなので、プロ競技とすることでどれほどの経済的社会貢献が出来るのかについてのデータが必要になってくる。

 その一例として、こういうものがある。

 データは古いが、プロゲーマー事情に詳しい竹井弘樹氏によると、韓国のプロゲーマー大会で人気のある『スタークラフト』(ゲームタイトル)だけで、「約1100億円の経済的波及効果」があるといわれている。その内訳は、PCバン(ネットカフェ)の営業売り上げが900億円と最も多く、その次に50億円弱のゲーム売り上げが続き、さらに放送(TV中継)の売り上げ、関連書籍売り上げ、キャラクターグッズ売り上げと、かなり広範に潤っているのが分かる。

 といった感じで、こういったデータを他にも探してきて、プロゲーム産業の魅力を示していくしかない。


【プロ化を阻む問題~「ゲーマー自身」の認識の低さ~】

 もう一つ、プロ化を阻む問題があるとしたら、それは「ゲーマー自身」の問題になってくるだろう。

 だがこれもやはり、このような社会状況下においては、ゲーマー自身も萎縮してしまうのか、ほとんど「プロ化」について考えられなくなっているし、語ろうともしない。日本でゲーマーが個人で「プロ契約」を結んだ例は、SIGUMA氏の1件以外に聞いたことがない。

 プロ契約とは到底呼べない契約なら、現在も水面下で無数に取り交わされているのだが、それでは意味がないばかりか、逆にプロ化を遅らせる有害要因でしかない。

 自分のゲームジャンル(非格闘系アーケード)での例をあげると、こんなものがあった。

 今から約10年前、あるアーケードゲームのVHSがメーカーから出され、そのプレイは日本を代表するような有名プレイヤーが担当した。

 そして内容もさることながら、前評判も高かったことと、当時のアーケード(ビデオゲーム)のプレイ人口は、今と比べ物にならないほど多かったことから、このVHSは2万本売れたという。

 もし前々章で示したような「定価の10%」をプレイヤーが受け取っていたなら、1本6千円の作品なので、600円となり、それに2万を掛けて、1200万円となるはずだ。

 ところが当時はそんな契約がされるはずもなく、いいように買い叩かれ、プレイヤーが受け取った額は、たったの10万円だった。

 これはどうやら、日本人なら伝統の「権利意識の低さ」が関係しているように思えてならない。別に先の件に限らず、現在に至るまで多くの日本のゲーマーが交わす契約は、そのようなものである。「作品さえ出ればお金なんていいですよ」という、いわゆる ”無欲” である。

 だが契約した本人は、無欲であったり清貧であったりするつもりなのかもしれないが、自分からみてそれは、「意味の無い善意」である。いやむしろ、それによってゲーマーがいいように使われ、更には ”キモイ” 、 ”犯罪予備軍” と言われるような、「ゲーマーの地位低下」を引き起こす元凶の一つになっている。なぜなら、そんな契約ではゲームを職業となし得ないし、それで自活し、「e‐スポーツ」としての地位を確立しなければ、いつまで経っても昔のゲーマーの暗いイメージは消えないと、容易に予測できるためである。

 あと余談だが、こういうことを具体的かつ声高に主張するのは、自分も過去に権利を安く提供した「過ち」があるためである。当時は「プロゲーマー」の存在も知らず、数百万から1億稼ぐ海外プレイヤーの存在も知らなかったので、こういった「権利」について考えもしなかったが、今となっては恥ずかしい限りである。

 とはいうものの、このような「権利意識」を自分はどこに行っても包み隠さず話すので、ごく稀だが、「カネの亡者か」と陰口を叩かれることもある。何より、ゲーマーの地位向上と生活保障が最優先課題であり、それを目指してやっているのに、身内(ゲーマー)がこれでは・・・と思い、そのたびに情けなくなる。

 一部だからまだしも、もしこういった連中がいっぱいいるようでは、おそらく欧米に権利意識が追いつくのは、あと50年から100年くらいかかるのではないだろうか。


【なぜ、プロゲーマー化なのか?】

 一方でひょっとしたら、「プロ化」しなくてもゲームの世界が失われるわけではないから関係ない、あるいは自分はプロになるわけでないからどうでもいい、という方もおられるかも知れない。

 だがそれによって、我々は「二つの価値」を失うこととなるだろう。

 一つは先述した「ゲーマーの社会的地位の向上」であり、もう一つは「プロを観る楽しみ」である。

 PCゲームにせよ、アーケード・家庭用にせよ、プロ化していないとはいえ、現在日本には世界レベルのプレイヤーが無数に眠っている。・・・いや今も活動していて、素晴らしいプレイを披露しているのだが、スポットが当たらないので眠っているように見えるだけである。

 今こそ ”目覚め” の時である。
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